時間の多寡が人生の価値を決めるのではない様に、JCライフもまた然り。
卒業生の三村治君は1年半。
退職者の大仁美枝さんは25年。
時間の長さだけで言えば対照的なこのお二人が同時に会議所を去ることに深い意味を感じました。
三村君にはブロック内から多くの仲間が、
大仁さんには歴代理事長をはじめとする多くの諸先輩方が会場を埋め尽くしました。
僭越ながらお二人に共通して言えることは、JCで過ごした時間が其々の人生を前向きに大きく変えたということです。
もしくは、JCを通じて其々が自身の新しい扉を開いたとも言えます。
大仁さんには感謝の言葉しかありません。
『当たり前』は当たり前ではないことを、今更ながら痛感しています。
これからも“阿南JC永遠の母”としてよろしくお願いいたします。
JCを卒業した後こそが人生の本舞台。
青年の心を生涯失わず、地域でこれからも活躍しつづける同志として、いつまでも青臭い生き方をしよう。
私自身、1年後のこの日をどんな気持ちで迎えるだろうか。
『随筆を書いてもらえませんか?』
過日の誕生日に、阿南市から依頼文が届きました。
もともと国語の成績がすこぶる悪い私。
でもこれは阿南JCをアピールできるチャンスと思い、連日空いた時間で文章能力を高める為の書籍を読んでいます(~_~;)
そんな中、出会った1冊の本は私に「書き方」ではなく「生き方」について教えてくれました。
強烈に腹落ちしたのは最後の章。
皆さんもこんな経験はないでしょうか?
《社会の“空気”みたいなものに合わせ、感情を抑え、望む結果を求めた代償として、対象への興味そのものが削がれ、自分の中の“何か”が失われること》
ミスチルが似たようなことを歌っていましたよね…
「自分らしさの檻の中でもがいてるなら」だったでしょうか。
社会人としてキャリアを重ねるごとに、いつの間にかそれが「当たり前になる」⇒「思考停止に陥る」ことが私にもあります。
その混沌とした状態を切り拓くヒントとして、チカラのある言葉が並べられていました。
一文をそのまま抜粋します。 ※出所
『・・・だからこそ、早いうちから、自分の意志を表現して打たれ、失敗を体の感覚にやきつけていかなくてはならない。表現力を磨き、成功体験を重ね、熟練して、自分の意志で人と関わっていけるようにしていくのだ。そういう自由を私は欲しい。そのための思考力・表現力の鍛錬なのだ。・・・』
このことは、自分や周りの心に鈍感になって人と調和することとは似ているようで異なります。
また、自分を貫き通した結果、当然のごとく周りから孤立することでもありません。
筆者が『正直という戦略。』と称した文章に深い感銘をおぼえました。
私自身、理事長という職に真正面から向き合い、同時に様々な視点で物事を見る心のアンテナを失わず、強い決断と行動を繰り返しながら、「正しとは何か」を追求し続けたい。
考えるまでもなく、人は生まれた瞬間に泣き声で 伝え、死を意識した時に 遺言 という形で残された家族に何かを 伝え ますよね。
「伝える」とは「生きる」ことでしょうか。
随筆の公開は4月。
さて、どんな「自分」に磨きあげようか…